第89話 「宮島弥山・大聖院登山道復旧(2) 」
里見茶屋を抜けて、左手の藪の中に「七丁」町石(写真1)を見ながら少し行くと、ナカンドウと呼ばれている広場へ着きます。広場の周辺は石垣で囲まれていた様子が窺えます。また、広場の中央には、建物の礎石跡がみられます(写真2)。少し前までは(と言っても20~30年前)、広場の片隅に屋根瓦の破片が散乱していたのを思い出します。ナカンドウは「中堂(中の堂)」の読みが訛ったもののようで、堂の中にはお地蔵さんが祀られていたそうです。
写真1 明治の町石「七丁」
写真2 ナカンドウの境内石
少し進むと、「十丁」の町石付近に「賽の河原」と呼ばれる小さな谷間があり、苔むした大きな岩の下に、岩屋薬師さんと呼ばれるお地蔵さんが座られています(写真3)。ここにはお参りする人や、手入れするも多く、また沢山のお賽銭も見られました。しかし3年の間、登山道が通行禁止されて、訪れる人も少なくなり、通行再開時には相当に荒れていましたが、今ようやく以前のすがたや賑わいを取り戻しています。
すぐに、「十二丁」幕岩です。幕岩は谷川にどっかり座った高さ30m、長さ150mの一枚岩です。セッコクなどの野生ランが自生していたことで、その道の人たちには知れていました。また、登山道脇には宮島では珍しいウリカエデが1本ありました。
しかし、この辺りは凄まじい土石流に見まわれました。幕石は足元を掬われて、さらに大きく岩肌を見せています(写真4)。珍しい植物たちも根こそぎ洗い流されました。「十二丁」の町石も含めてこの付近の登山道は流出し(写真5)、あらたな石段の登山道が敷設されています(写真6)。

写真3 賽の河原のお薬師さん

写真4 姿を変えた幕石

写真5 旧登山道は立入禁止
いよいよ「十三丁」の町石を経て「太夫戻岩」です(写真7)。むかし、広島藩主福島正則が弥山参りの掟に従わず無理やりに登ろうとしましたが、この岩から先は進めず引き戻されたという岩です。その掟とは、弥山では「ひつじの刻(現在の午後2時)以降は山に入ってはいけない」というものです。
無謀登山が云々される昨今ですが、今でもきちんとした登山会(グループ)では、泊りがけの登山などでは午後2時までに山小屋に入ること、午後2時からは新たな行動を起こさないこと指導されています。「ひつじの刻~」は、先人の素晴らしい教えだと思います。

写真6 あらたな石段の登山道

写真7 太夫戻岩

写真8 白糸川砂防1号堰堤
「太夫戻岩」を抜けると、目の前が突然開けます。宮島にはあまり似つかない光景です。この度の復旧工事の中心「白糸川砂防1号堰堤」です(写真8)。
このことについては次回に。
山岳信仰・弥山の登山道には、1丁(約109m)ごとに参詣者が寄進した多くの「町(丁)石」(写真9)が残っています。古くは1599年(慶長4年)のものもあります。弥山の頂上(標高530m)は24丁です。
一方で、宮島の自然「弥山原始林」を見ながら、そのまた一方で、宮島の歴史遺産「参詣道の町石」を見ながら、ぜひゆっくりと弥山登山を楽しんで下さい。

写真9 江戸時代の町石「十六丁」
